Football: What's wrong with you?

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ワールドカップですが、日本代表の戦いぶりにはいろいろ考えてしまいます。
上は今朝(22 June 2014)のA新聞、中鉢氏のコラム。
これを読んでみると、その迷走具合は相当かと。

見出しには「戦術無視、右往左往」とあるので、これまで培ってきた戦術徹底を求めるコラムかと思って読むと、結論は「自分たちの」ではなく「勝つために何をするかを考えろ」ということらしい。

しかし、そここそが迷走の分岐点。
つまり、ある人は「自分たちの」=「勝つため」、またある人は「自分たちの」≠「勝つため」と思っている。
なので、そこを一度突き詰めないと、意志が一つにならない。
結局、現場で見ている人たちですらわけがわからなくなっている。

その点、都並氏のこのコラムは現状をかなり的確に言葉にできているのでは。
http://brazil2014.headlines.yahoo.co.jp/wc2014/hl?a=20140621-00136617-gekisaka-socc



個人的に思うのは、スポーツにおける勝負ってなんですか、ということ。
たとえば野球のピッチャーなら、初回に投げてみて自分の調子や相手の出方を確認・観察し、その後の組み立てを変えていく、バッターもそれに対応して狙いを変えていく、など当たり前のこと。
相手がそうくるならこっちはこう、そして相手の弱点を突く、といったことは普通のことでしょう。

なのに日本のサッカーでは代表レベルの選手ですら、そういう対応ができていない。
相手エースが途中で入ってくるのなんてわかりきっていたこと。

また、どんな試合にも流れというものがある。
でもたとえば今回の初戦では、先制点を取った後、自分たちがどうしたらいいのかわからなくなるという……。

サッカーは90分という時間制限のあるゲーム。
それだけの時間の流れの中で、1-0なら、0-1なら、2-0なら……、どうするのかといったゲームプランがあってしかるべき。なのにそれがあるように見えない。あるいはゲーム中にそうした柔軟な対応ができない。

それに初戦の格上の相手なら引き分けでも十分なのに、同点にされただけで足がすくむ。そして連続失点。
つまり、予選リーグ3戦を全体としてどう戦うのかというプランがない、あるいはそれがチームに浸透していない。

初戦で得失点差をマイナス1に留めたのは不幸中の幸いだったのに、2戦目ではそうした自分たちの立場のアドバンテージ(ギリシャより心理的に有利)を生かせない。
初戦のダメージを引きずりすぎなのか、むしろプレーの幅が狭くなる。
監督の采配がどうのこうのもあるが、要は1点決めればいいだけの試合で、目の前の局面に必死になりすぎて(つまり思考の柔軟性を失い)それができない選手たち。
だからパワープレーという話になる。

現状のままでは崩せないからこそ、監督はそういうアイデアをフィールドに与えている。
でも、だからといって別に「絶対に」ヘディング攻撃に徹しなければならないわけでもない。
攻撃の枚数が1枚増えたと考え、そこを生かして相手を崩す地上戦をやったっていい。
あの時間帯なら、自分勝手な動きをして点を取ったっていい。
要は取ったもん勝ち。
でもそれもやっぱりできない。

「パワープレー 疑問と戸惑い」は見ている側の人が思うことであり、試合中の選手がそこで思考停止していてはだめ。
「監督の指示はこう。でも、なんでなんで?」などと悩んでいる暇はフィールド内にはない。
むしろ「なにがなんでも点を決めろ!」という監督の意志をフィールド上で表現する(つまり形はなんであれ点を決める)のが選手の役目。

都並氏のコラムにもある通り、責任は監督。しかしやるのは選手。

現代表チームの持ち味は「相手を上回る」連係で「柔よく剛を制す」サッカーかと思っていたが、むしろ現状はその逆。
恐らく少なからぬ選手たち(そしてたぶん見ている人たち)の頭の中で、手段と目的がごちゃごちゃになっている。そして「自分たちの」という想念のせいで頭も身体も動きが縛られてしまっている。

ワールドカップという大会においては、「自分たちの」だろうとそうじゃなかろうと、そんなことは、どうでもいい。「自分たちの」のうち、相手にダメージを与えられる部分は徹底的に利用する、そうじゃない部分はさっさと切り捨てて、違うやり方で攻撃する、これを90分+αの制限時間内にできるだけ密度濃く繰り返し、相手よりも多く得点する。それだけのこと。

ワールドカップは強化試合ではない。
だから「勝ち方」は最優先事項ではない。
極論するなら、“勝てばいい”。
それがワールドカップの命題であることは歴史が示している通り。