"Hibana"――――今更ながら、掲載号の文藝春秋を入手したので一気読みしてみた。
まずもって、この作品に関して言われている「小説として~」、とか、「純文学として~」、というようなことがよくわからない。というよりもそういう論点が持ち出されることにまるでピンとこなかったというべきか。が、描かれている景色は身に覚えのある部分が多く、かなり昔の日々を思い出してしまった。
思うに、何者かになりたいともがく行為は、自分という人間が「在る」ことを意識し、それゆえに未来に対する畏れをも自覚した若者に特有の熱病のようなものなのではないか。当然それは若さゆえ、でもある。自分が描く自分の未来像に本当に到達できるのかどうか――その「?」は当人を不安にし、それゆえ時間や空間を言葉や行為で埋め尽くさずにはいられなくなる。そうやって夢中になって埋め尽くすことで不安の自覚から遠ざかろうとする。ただしやればやるほど、つまり投資した総量が多くなればなるほど、焦りや不安もまた大きくなるのだが。
そうしたフェーズを人並みに体験した過去を振り返って今思うのは、そうした行為が、たとえば本作の主人公ならプロ芸人を目指す行為が、どういった枠組みの中に位置づけられるものなのかを自覚すること、それがひとつの指針になるのではないかということだ。その仕組みにはどういう人間がかかわっているのか、どこに利益が流れていくのか、そして自分はそこでどのような役割を担うことになるのか、だ。
その上で自分が「目指している」ことの意味を自覚していないと、結局は本作の神谷のように最後は支離滅裂なことになってしまう。辻褄が合わなくなって、破滅してしまう。端的に言えば、経済的に成立するかどうかが全てでもある。神谷はそこが成立しなかった。徳永は、当座をしのげる程度には成立していたが、しかし、そこまでだった。相方がやめるのを機に「漫才はあいつとしかできない」ことを理由に足を洗った主人公のその理屈は言い訳でしかないが、現実的で整合性の取れた判断でもある。それはもしかしたら、たとえば「バカ売れしてしまった神谷」よりも幸福な帰結かもしれない。
だがひとつ言えるのは、熱病であれ何であれ、トライした後の日々が持つ意味は、トライしなかった人間の日々のそれとは同じではないということだ。誰かに言う必要も理解してもらう必要もないが、熱病から無事生還できたこと自体、ひとつの実現である。それによりその人間の内面には生きていくためのひとつの規準が形成される。その自負心があれば、そこから先、何を畏れる必要があるだろう? 熱病は命がけなのだ。その後の日々をどちらの意味でも軽やかに生きていけるのはそれゆえのことだ。